逃走してもいいじゃない、と思えるパフォーマンス!
ダンス研究者 宮川麻里子
うえもとさんの舞台をいくつか見て思うのは、いい意味で非常にバカバカしいという印象とともに、それでもどこか憎めいない、愛のような、温かい視線が
感じられるということだ。大人が全力でお化け屋敷を小学校使ってやっちゃう
とか、公園の中で魔法の調味料だかなんだかを探す小芝居を全力でやっちゃう
とか、一言で表してしまえばくだらないこと限りなし、なのだが、見る人は
なぜかその世界観にハマり、笑い、(人によっては感動し?)、ついついまた
見たくなってしまう。
人は演劇に、明確な物語やテーマを、あるいは意味を求めがちである。でも
そんなふうにいつも何かを生産できるとは限らないのが人生なのではないか。
全力で無駄なことをやったっていいし、無為にエネルギーを消費したって
いいのだ。『逃げる男』は、4人の男たちの人生からの逃走劇をセリフとダンスで表したものだが、彼らの悶々とくだらないことで悩むだけの日常を、どうでもいいところに過剰にエネルギーを注ぐ「くだらなさ」で、最高に愛おしい瞬間に織り上げた。
劇場の入り口からコンビニの袋を下げて4人の男たちが入ってくる。彼らは夜、ポテチをつまみコーラを飲みながら、「ゆっこおねえさん」のラジオを聞くことに慰めを見出している。突然、4人の合唱で『カルメン』より「闘牛士の歌」の替え歌を歌いながら、ツワモノたちを鼓舞する歌を熱唱し、それに
合わせて勇ましく(?)動きながらポーズを決めていく。そんな彼らが、初めて女の子に告白する話を始める。しかし彼らは、意中の彼女を道で見かけるたびになんらかの障害が発生し、断念せざるを得ない(この状況はセリフで説明
される)。ツワモノは幻想だ。やがて妄想の中なのか、それぞれの意中の彼女を4人が自ら演じ出す。Tシャツとズボンを脱ぎ、スリップ姿で曲に合わせて
ステップを踏みつつ、多少色っぽいポーズ。
彼女たちは彼氏(=自分)を自慢し、それが徐々にエスカレートしていく。ポーズを決めるたびに、周りがやられたポーズを取るという擬似戦隊モノの
ような展開である。男たちの妄想シーンなのだから、どんな女の子が出てきてもいいし戦い出してもいいのだが、スリップで女性を演じながら、小学生の戦いごっこのような動きを本気で行う彼らの姿は本当にバカバカしく、
「くだらねえ」と思いつつ笑ってしまう。
やがておもむろにスリップを脱いで最初のTシャツに着替えると、ラジオが
かかる。今日は「湯上りパンプキン」さんの投稿が採用される。ラジオでは
パーソナリティの「ゆっこ」が彼の悩みを聞き、慰める。「湯上りパンプキン」は、涙ぐみつつ、ティッシュを立ち上る感情の発露のように高速で取り出し、
壁にかけられたスリップに詰める。そこへ別の2人の、ティッシュをひたすら
リズミカルに取り出すだけのダンスが挿入される。ティッシュの落ちていく
スピードとダンスのノリが微妙にリンクしていて面白い。しかし無駄に
ティッシュが消費されていくだけで、それは何も生み出しはしない。引き続き
他の3人もそれぞれが苦手なものや困っていることをラジオに相談する様が描き出される。夜中のトイレに行けない人。ひたすら自分が何者にもなれない人。
それから昼夜逆転なのか、太陽が怖い人。
最後は、なぜかポテチの袋を折り紙のように貼り合わせた衣装(上半身だけの鎧とマントのような)を着て、それでも人生、踊って生きるぞという感じの男4人が揃って踊る。フォーメーションというか、ジャンプというか、微妙にずれて
いるけれども、4人がそれぞれ個性的でいわゆるダンサーっぽくなく、いっぱいいっぱいやっている感じに好感を持てる。劇場の外の歩道に面したカーテンを
開けると、ポテチの袋で太陽が大きく貼り絵のように作られていて、まるで学校の寄せ絵みたいな出来である。そうして4人の男たちは劇場の外へ出て行き、シャッターをあげて歩道に行き交う人の姿もあらわにするのだ。
確かにダンスと演劇を融合させるのならば、ピナ・バウシュのように一つ一つの身振りに対してもう少し繊細になるべきなのかもしれない。しかし人生からの逃走劇を、哀愁を持って面白おかしくエネルギッシュに演出することで、そこにいる人間たちの姿を愛おしく浮かび上がらせたとも言えるだろう。いや、もっともっとナンセンスに走ってもいいのかもしれない。
観劇日時:2018年03月15 日20時、王子スタジオ1